稲部遺跡から巨大建物が発見

 先々週・先週と、彦根の街の上空を、ヘリコプターが頻繁に飛び交っていました。

何かあったのかな?と思っていましたが、もしかしたら、稲部遺跡の建物の発見で、

報道各社がヘリコプターを飛ばしていたのかもしれません。

というわけで、今日は、稲部遺跡での発見について、ブログを書いてみようと思います。


稲部遺跡の調査

 市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴い、彦根市教育委員会では、発掘調査を実施していました。ここに限らず、彦根市内では、様々な遺跡があるため、よく調査をしている光景を見かけます。実際、近所の幼稚園の建て替えに際しても、遺跡の調査がされていました。とても丁寧に発掘し、記録されている様子がありました。

 

 平成25年度から実施された稲部遺跡の調査で発見されたのは、2世紀から4世紀(弥生時代後期中葉から古墳時代前期)の大規模な集落跡です。稲部遺跡が最も栄えた時代は、3世紀前半、弥生時代から古墳時代へ移り変わる時代、つまり、邪馬台国と同じ時期にあたるそうです。

 

 中国の歴史書「魏志倭人伝」には、このころ、倭(=日本)には、魏もしくは出先の帯方群と外交している国が30ヶ国あったとあります。おそらく、稲部遺跡も、この国々の一つの中枢部だったと思われるそうです。

稲部遺跡 地図
※彦根市HPより

巨大建物跡の発見

 10月17日の彦根市教育委員会の発表によると、今回は、弥生時代末(3世紀初め)~古墳時代初め(同中ごろ)の鍛冶(かじ)工房群や大型建物の遺構が確認されたそうです。建物は何度か建て替えられたとみられ、邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定されています。

稲部遺跡 写真
※中日新聞/CHUNICHI WEBより

 稲部遺跡からは、180棟以上の竪穴建物に加え、王が居住するにふさわしい大型建物、独立棟持柱建物が発見され、当時、保持することが勢力に大きな影響を与えた鉄器の生産が行われた鍛冶工房群、青銅器の鋳造工房も発見されています。祭祀都市・政治都市であるうえ、工業都市でもあった稲部遺跡は、ヤマト政権成立期における近江の巨大勢力の存在を物語る大集落です。

 

 大型建物跡は7棟あり、うち2棟は188平方メートルと145平方メートル。柱穴の大きさは0・6~1・5メートルで、柱の直径は0・2~0・4メートル。儀礼施設や首長居館のほか、倉庫と考えられるそうです。竪穴建物は30棟以上あり、うち23棟から約6キロ分の鉄片などが出土したそうです。ハンマーとして使った石も見つかり、市教委は、武器や工具の鍛冶工房「地域の鉄器生産センター」があったとみられています。

稲部遺跡
※毎日新聞HPより

 そして、平成28年10月22日(土)に、彦根市稲部町・彦富町 稲部遺跡発掘調査現場で、現地説明会が行われ、実際に遺跡と出土遺物を前に、この「イナベのクニ」とでも呼ぶべき遺跡の内容と、近隣にそびえる国指定史跡荒神山古墳へのつながりについて、調査担当者がお話ししてくれました。

 

 平成28年10月27日から平成29年3月24日の期間中、稲枝地区公民館において、「稲部遺跡群の発掘調査-邪馬台国時代の近江の巨大勢力-」としてパネル展示を行われているそうなので、この日本における歴史的大発見を実際に感じてみるのも、よいですね。

保存か 道路整備か 協議開始へ

 元々、この稲部遺跡の発掘は市道芹橋彦富線・稲部本庄線道路改良工事に伴って行われていたものなので、今後は、稲部遺跡の保存か市道の整備なのか、調整協議が行われるとみられています。

 道路河川課は、稲辺遺跡周辺での道路は、約800mを整備予定で、平成22年から用地買収を進めてきていて、すでに63%の用地買収が完了している状態です。事業費として、すでに1億5千万円以上を投入しており、平成31年度内の整備完了を目指しているところです。

 

 一方、文化財課は今年の稲部遺跡の第7次調査開始から、稲部遺跡周辺の道路整備も見直しも含め、道路河川課に相談をしていたそうです。

 

 現在は協議が始まっていないので、市道整備については、計画が進んでいる状況だそうですが、 今回の発見と報道をうけ、各専門家からは、貴重な文化財としての保存を求める声も大きいので、今後は、道路河川課と文化財課での協議や保存に向けた議論が行われると予想されているそうです。

 

 最終的には、市長の判断となる可能性が高いそうですが、今後、稲部遺跡がどのようになっていくか、気になります。


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